1月東京定期 前島秀国氏(サウンド&ヴィジュアル・ライター)による楽曲解説を事前公開!

日本フィル 第627回東京定期演奏会
http://www.japanphil.or.jp/cgi-bin/concert.cgi?action1=preview_details&seq=578
プログラムノート
前島秀国



 新しい音楽や作曲家が初めて聴衆に紹介される時、そこには往々にして賛辞と非難の嵐が巻き起こる。ジュリアード音楽院長在任中にジュリアード弦楽四重奏団を創設し、リンカーンセンター初代総裁を務めるなど、20世紀アメリカ音楽の発展に尽力したウィリアム・シューマン(1910-1992)。いわゆるミニマル・ミュージック創始者のひとりとして知られるスティーヴ・ライヒ(1936- )。《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》の三大バレエで20世紀音楽の発展に絶大な影響力を及ぼしたイゴール・ストラヴィンスキー(1882-1971)。この3人の作曲家は、いずれもコンサートホールで聴衆の凄まじい拒絶反応に遭いながら、それを糧とし、バネとして自らの音楽語法に磨きをかけていった作曲家である。20世紀音楽の古典とも呼べる当夜の3曲を聴きながら、伝統と革新とは何か、改めて考え直してみるのも悪くはないだろう。



W.シューマンアメリカ祝典序曲
 1939年、すなわちシューマン29歳の年、ボストン交響楽団の常任指揮者を務めていたセルゲイ・クーセヴィツキーはコープランドの強力な推薦により、シューマンの《交響曲第2番》を演奏会で採り上げた。ところが終演後、《交響曲第2番》はボストンの聴衆の冷淡な反応に遭い、作曲者は舞台に上がることすら許されなかった(シューマンは後年この交響曲を撤回)。同年秋、クーセヴィツキーはアメリカ人作曲家の新作を紹介する特別演奏会を企画するが、《交響曲第2番》の失敗もあり、クーセヴィツキーがシューマンの作品を再び指揮する機会は訪れないように思われた。
 特別演奏会のプログラミングは、シューマンの作曲の師でもあったロイ・ハリスがアドバイザーを務めていたが、ハリスは愛弟子シューマンに“リベンジ”の機会を与えるべく、祝典序曲の新作作曲を促した。《交響曲第2番》があまりに知的過ぎたという反省も踏まえ、シューマンはハリスに《アメリカ祝典序曲》の構想をこう打ち明ける。「序曲は“Wee-Awk-Eem”という短三度の動機で始まり、それをエネルギッシュかつ華やかなスタイルで展開した後、(ヴィオラで始まる)堅苦しくないフーガが続き、再び短三度の動機(のフィナーレ)に戻る」。この“Wee-Awk-Eem”というのは、シューマンが幼年期を過ごしたニューヨークで子供たちが仲間を集めたりお祭り騒ぎをしたりする時に口ずさむ、掛け声の一種である。つまりシューマンは、誰もが共感しやすい幼年期の記憶(つまり子供の遊び)に直接訴えかけることで、聴衆とのダイレクトな意思疎通を図ったのだった。最終的にクーセヴィツキーは、シューマンのノーギャラを条件に《アメリカ祝典序曲》の指揮を受諾。しかし、この作品の初演で大きな成功を収めたシューマンは、まさにプライスレスの“報酬”を手にしたのだった。
初演:1939年10月6日ボストン・シンフォニーホール、セルゲイ・クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団
楽器編成:フルート5人(うち1人がピッコロ持ち替え)、オーボエ4、イングリッシュ・ホルン1、クラリネット4、バス・クラリネット1、ファゴット4、コントラファゴット1、ホルン8、トランペット3、トロンボーン3、テューバ1、ティンパニシロフォン、小太鼓、シンバル、大太鼓、弦楽5部。



ライヒ:管楽器、弦楽器とキーボードのためのヴァリエーション
今日、テクノやクラブ系アーティストを中心に若者の絶大な支持を得ているスティーヴ・ライヒだが、彼自身はストラヴィンスキーバルトーク、バッハ、それにルネサンス音楽の影響を公言しており、作曲活動のかなり早い時期から伝統的な対位法やポリフォニー(多声音楽)に関心を寄せていることは注目すべき事実である。
 1960年代、ライヒは同一の音声を録音した2本のテープを同時にループ(無限)再生し、片方のテープの再生速度をわずかにズラすと、そこからモアレのような音響現象が生まれることを発見した。これが「フェイズ・シフティング(位相ずれ)」と呼ばれるライヒ初期の技法であるが、クラシックの伝統的作曲法から見れば、実はカノンの技法をテープ再生に応用したものに他ならない。ライヒは「フェイズ・シフティング」に基づく器楽作品を作曲した後、音を引き伸ばす拡大(オーグメンテーション)の技法――これもバロック以前の音楽に頻繁に見られる――に徐々に関心を寄せていった。
 1970年代前半、ライヒマイケル・ティルソン・トーマスの強い後押しにより、自作《4つのオルガン》を演奏するためにカーネギーホールやボストン・シンフォニーホールといった格式ある演奏会場に登場したが、演奏するたびに怒号とブーイングの嵐が巻き起こり、《春の祭典》初演時の騒動もかくや、と思わせるほどの大スキャンダルが巻き起こった。演奏時にライヒと共にソリストを務めたマイケル・ティルソン・トーマスが筆者に語ったところによれば、ボストンで《4つのオルガン》を演奏した際、ある女性客などは演奏中に靴を脱ぎ、ヒールを床に強く叩き続けながら演奏中断を試みたほどだったという。
 このような強烈な拒絶反応は、一時期のライヒを極度のクラシック嫌いに陥らせてしまうが、《18人の音楽家のための音楽》(1974年初演)が大きな成功を収めて以来、音楽界の状況が大きく変化。今回演奏される《管楽器、弦楽器とキーボードのためのヴァリエーション》はサンフランシスコ交響楽団による委嘱で作曲され、ライヒが伝統的なオーケストラのために書いた最初の作品となった。以下にライヒ自身のプログラムノートを抜粋してご紹介する。
 「(作品を構成する3つの)変奏曲はシャコンヌ風の和声進行に基づいているが、伝統的なシャコンヌが4小節または8小節単位の和声進行をとるのに対し、本作ではより長い進行が続く。和声進行はハ短調(Cドリアン)で始まり、その後、変ハ長調すなわち異名同音調ロ長調に達するが、このように徐々にシャープ(♯)を落としフラット(♭)を加える形でゆっくりと転調を繰り返し、最後にハ短調に戻る。この和声進行が一巡する時間は、変奏曲順におよそ6分、10分、9分かかる。(中略)曲全体を通じ、最低2名の木管奏者が旋律パターンを演奏し、第3の木管奏者が上声部でカノンを吹く。オーボエ3+電子オルガン、およびフルート3+ピアノ2+電子オルガンの組み合わせが旋律パターンを、弦楽+電子オルガンの組み合わせがゆるやかに変化する和声をそれぞれ担当。第1、第3の変奏曲では金管群がフェードイン/アウトし、中音域を担当する弦楽とオルガンを補って和声を完結させる」(スティーヴ・ライヒ)。
 こうして文章の形で読むと、味もそっけもない作品のように思えてしまうが、作品全体を通じてゆるやかに変化していく和声のプロセスは、あたかもプリズムを通して見る光が微妙に色合いを変えていくさまに酷似しており、そこには得も言われぬ独特の美が存在する。従来この美しさは、70年代からライヒに注目してきたテクノ、ロック、ポップス系の人たちによって“トランス”や“ミニマル”などと表現されてきたが(ライヒ自身はこれらの用語を嫌っている)、先に引用したプログラムノートに記されているように、実は徹頭徹尾クラシック的な思考から生み出されたものなのである。
 ジュリアード音楽院在学時代、ライヒはジュリアード弦楽四重奏団が録音したバルトーク弦楽四重奏曲全集と、ストラヴィンスキーの《春の祭典》自作自演盤のレコードを針が擦り切れるまで聴き直し、和声とリズムの面で大きな影響を受けたという。このことは、本作を含むライヒの作品を理解する上で、きわめて有益な示唆を与えるのではないかと思う。
 今年2011年はライヒ生誕75年を祝賀する記念プロジェクトが世界各地で開催される予定だが、来る3月19日にはクロノス・クァルテットとサンプリング・ボイス(スピーチ音)のために作曲した最新作《WTC 9/11》の世界初演オレゴン州ポートランドで予定。さらに2001年同時多発テロ10周年となる今年9月11日には、レディオヘッドのギタリストとして知られるジョニー・グリーンウッドとの共演がポーランドのクラカウで予定されている。
初演:1980年2月19日カーネギーホールスティーヴ・ライヒ・アンド・ミュージシャンズ(室内楽版による試演)
    1980年5月14日サンフランシスコ歌劇場、エド・デ・ワールト指揮サンフランシスコ交響楽団管弦楽版)。
楽器編成:フルート3、オーボエ3、トランペット3、トロンボーン3、テューバ1、ピアノ2、電子オルガン3、弦楽5部。



ストラヴィンスキーバレエ音楽春の祭典 
 1910年、ストラヴィンスキーは友人で画家のニコライ・リョーリフ(レーリヒ)と共に、異教徒の儀式を題材にした新作バレエ――後に《春の祭典》と命名されることになる――の草案を練り始めた。ストラヴィンスキーの『自伝』によれば、この新作バレエの構想は、彼が《火の鳥》作曲中に見た異教徒の幻影に基づいているという。「長老たちが輪になって座り、若い乙女が死ぬまで踊り続ける様子を見守っている。長老たちは春の神の慈悲を得るために、乙女の命を生贄に供する」。実は1908年、ストラヴィンスキーは詩人セルゲイ・ゴロデツキーの詩集から2編の詩を選んで旋律を付けた《2つのメロディOp.6》を作曲しているが、そのゴロデツキーの詩集の中に、先に引用したストラヴィンスキーの幻影とそっくりの詩が含まれていたのである。若い女性を神に捧げるような異教は古代ロシアに全く存在しなかったから、おそらくストラヴィンスキーの幻影はゴロデツキーを“モトネタ”にしたものと考えられる。
 ストラヴィンスキーは、この新作バレエに《大いなる犠牲》という仮題を付けてスケッチに取り掛かるが、《ペトルーシュカ》の作曲を優先させるために中断を挟み、1913年3月にようやく全曲を完成させた。作曲スケッチなどの資料から今日の研究が明らかにするところによれば、ストラヴィンスキーは作曲の素材にもいくつかの“モトネタ”を使用している。特に重要な役割を果たしたのは、ポーランドの司祭アントン・ユスキエヴィチが1735曲のリトアニア民謡を編纂した民謡集。その中の第175番の民謡の旋律が、《春の祭典》冒頭に登場するファゴットの旋律の“モトネタ”になった。この他、ストラヴィンスキーの師リムスキー=コルサコフが編曲した《100のロシア民謡Op.24》、それにグレゴリオ聖歌の《ディエス・イレ(怒りの日)》の旋律などの影響が、作曲スケッチや完成作品の中に指摘されている。ただし、ストラヴィンスキーはこれらの“モトネタ”をあからさまな形で引用することはせず、民謡の旋律を細かい動機(細胞)に分解し、切り刻み、引き伸ばし、それを基にしながら曲を構成するリズムや和声を組み立てていったのだった。第2次世界大戦後、オリヴィエ・メシアンピエール・ブーレーズといった作曲家が《春の祭典》の楽譜に注目し、特にブーレーズは「リズム細胞」という用語を用いて《春の祭典》の精緻なリズム構造を明らかにしてみせたが、現代の若い聴衆にとって、よりわかりやすいのは“リミックス”という考え方だろう。上述のライヒと共にミニマル・ミュージックの巨匠として知られるフィリップ・グラスは、次のような発言を筆者に残している。「要するにストラヴィンスキーは、リミックスの大家だったのです。ロシア民謡という“モトネタ”を使って、あれだけの曲を作り上げた。引用という手法自体は、クラシックの歴史の中でそれほど目新しいものではありません。ただし、引用した素材を徹底的にリミックスして曲を組み立てたのは、おそらくストラヴィンスキーが史上最初の例でしょう」。
 1913年5月29日、《春の祭典》はニジンスキー振付のバレエ・リュス団の上演で初日を迎えたが、その舞台を見るためにシャンゼリゼ劇場を訪れた聴衆は、音楽史上類を見ない大騒動を目撃することになった。曲の冒頭、常識外れの高音部を吹くファゴットの演奏から、すでに客席から失笑が洩れ始めていたが、音楽が進むにつれて野次と歓声が凄まじくなり、遂には暴動状態に発展。興行主ディアギレフは客電を点して事態の沈静化を図るも効果はなく、挙句の果てには警官隊が出動するスキャンダルとなった。この初演時の騒動は、昨年公開された映画『シャネル&ストラヴィンスキー』の中でニジンスキーの振付と共に忠実に再現されているので、未見の読者は是非ともご覧になることをお薦めしたい。
 全曲は次のような構成となっている。
 第1部《大地への接吻》:導入―春のきざし(乙女たちの踊り)―誘拐の遊戯―春のロンド―対立する部族の遊戯―老賢者の行進―老賢者の大地への接吻―大地の踊り。
 第2部《生贄》:導入―乙女たちの神秘的な輪の踊り―選ばれし生贄の乙女の賛美―祖先の降霊―祖先の儀式―選ばれし乙女の生贄の踊り。
初演:1913年5月29日シャンゼリゼ劇場バレエ・リュス公演、ピエール・モントゥー指揮シャンゼリゼ劇場管弦楽団
楽器編成:ピッコロ1、フルート3(ピッコロ持替1)、アルト・フルート1、オーボエ4(イングリッシュ・ホルン持替1)、イングリッシュ・ホルン1、クラリネット3(バス・クラリネット持替1)、E♭管クラリネット1、バス・クラリネット1、ファゴット4(コントラファゴット持替1)、コントラファゴット1、ホルン8(テナー・テューバ持替2)、D管トランペット1、トランペット4(バス・トランペット持替1)、トロンボーン2、バス・トロンボーン1、テューバ2、ティンパニ2、大太鼓、タムタム、タンブリン、アンティーク・シンバル、トライアングル、ギロ、弦楽5部。


(まえじま ひでくに)