ここに希望の光がある!宮城県南三陸を訪れて。

2011年7月17日(日)13:00(日本時間) 東京―モスクワの機上にて
日本フィル客演首席トランペット奏者 オッタビアーノ・クリストーフォリ

東日本大震災の被災地である宮城地方にて今回、僕たちが行なったチャリティーニコンサートについて、印象を書いて欲しいと日本フィルの事務方から頼まれた。これは、震災のまさに4ヵ月後にあたる7月10日、11日の二日間にわたって、僕たちが南三陸という町を訪問したものだ。

事務所から与えられたプログラムは、いつものとおり、とても詳しくて、きっちりとしたスケジュールに則っていた:10日の朝、東京を出発、東北新幹線で仙台へ。そこから車で志津川高校へ向かう。到着後、金管木管それぞれのアンサンブルのリハーサル、続いて、学校の生徒たちのバンドと合同リハーサル。それから、避難所となっている大きなホテルへ向かい、そこでコンサートを行う。二日目は、志津川中学校の生徒たちのバンドとの合同リハーサル。そして、コンサートを行い、その日のうちに東京へ戻る。

今回のアウトリーチは、一見、通常の、これまでに何度もやってきたものと同様のプロジェクトのようでもあったが、でも、違っていた。僕たちは大きな悲劇の中心地に向かったのだ。それも、他人の悲劇ではなく、日本全体にとっての悲劇であり、日本にとって最悪の悲劇だった。

今回の目的地がどのような様子なのか、僕は正直よくわかっていなかったが、多くを尋ねることもしなかった。ただ、僕らの宿泊場所は安全で大きなところになること、そして、学校は普通どおりやっていて、生徒たちのブラスバンドも通常通りの練習を再開できているということだけ知っていた。
 

道中、僕の目は地震の爪あとを追っていた。もちろん、家や建物にその跡は多く残っていた。だが、どの建物もそもそも地震に対して万全の備えをしているのであろう、完全に崩れ落ちているようなものは全く無かった。もしかしたら骨組みや構造上の問題ですでに使えなくなっている建物もあったのかもしれないが、ただ、その外見からは、地震の際にその中にいた人々はおそらく余裕を持って救出されただろうと思わせ、安堵を覚えた。
屋根だけが壊れていたり、道がまだ崩れていたりする様子を見ても、日本の人々が長年、地震対策に努力してきたおかげで、多くの命が救われたことが感じられた。だが、その思いは、丘を下がっていくと完全に裏切られてしまった。




丘の下には、何の希望も残されていなかった。この一帯ではどこにも逃げ場がなかったのだ。ここにあったものはすべてが流されてしまった。建物が新しかろうが古かろうが、大きかろうが小さかろうが、老人だろうが子供だろうが、何の区別も無かったのだ。目の前に広がっているこの光景が、僕らに命を与えてくれる見えない力は、同じようにいとも簡単に命を奪うのだということを、僕に初めて、そしてはっきりと、教えていた。
目の前の全てが、永遠に失われてしまっている。ネットや新聞、テレビで、世界中の人々が繰り返し見た光景を、ここで繰り返して述べるつもりはない。しかし、テレビの映像からでは、死というものの匂いを見ることは決して出来ない。この絶望の、非現実的な沈黙を聞くことはできない。全ての希望を失って、亡くした親兄弟の記憶を深く深く掘り起こしながら、ただ黙って、朽ち果て丸裸になった故郷を見つめる祖母たち、父たちの呆然とした表情を味わうことはできない。
 今はただ、僕らの口の中も心の中も、沈黙が支配するだけで、何の声をかけることもできない。僕は、何の希望も見出せやしない、一体この土地はどうやって再び立ち上がることが出来るというのか、この何もないところから、一体誰が起き上がるのか、という思いを抱くばかりだった。
そしてその問に対する答えは、思いのほかすぐに、しかも大きな喜びと驚きをもってもたらされた。



到着すると、僕たちは単独リハーサル、そして学校バンドの生徒たちとの合同練習を行い、ホテルに移動してコンサートを行った。敬いに満ちた厳かな雰囲気の中、大きな部屋で演奏をした。この場所は普段は人々が食事をする場所で、豪華な装飾があったり、大切な置物が置かれていたりする。1年前だったら、ここにいる人々はきっとこの美しいホテルの、海を臨む眺望の良い部屋でのコンサートを心から楽しんだことだろう。しかし今は、そのように感じられる人はここにはいない。こんな贅沢はすぐにでも投げ捨てて、一刻も早く自分の家に戻りたいと皆が思っている。しかし、そんな複雑な思いを抱く人々の前で、僕たちは演奏した。できることなら、ほんのわずかな時間でも、彼らの心に新鮮な空気が流れるように、そして、出来る限り丁重に、人々に対して無礼に見えないように。そして、人々は、日本人らしく威厳と礼儀正しさをもって僕たちを扱い、感謝してくれた。


この中学校と高校は、この町の別々の丘の上にそれぞれ建っており、丁度その間に町が広がっていた。学校からは、丘に囲まれた美しい湾が見渡せた。3月11日14時46分、生徒たちはここで練習をしていて、皆、助かった。ここにこそ、希望の光があったのだ。



地震の直後、すぐに動ける人々は皆、この学校のある丘に避難したそうだ。そして、津波が押し寄せ、彼らの町を打ち消してしまう様を、ここから目撃することができたのだ。子供たちの中には、このときに家族を失ったものも多い。他に行き場がないため、数週間この学校で過ごしたという。しかも少なくとも1週間は電気も水もなく、食物も充分にはなかった。







それなのに、わずか4ヵ月後には、彼らは皆揃ってきれいな制服を着て、きちんと結んだリボンを身につけ、礼儀正しく美しいマナーを見せて、他の多くの日本人と同様に、僕を感心させている。教師の言うことに真剣に耳を傾け、黙ってきっちりと演奏する。








まるでジャングルの中のアラビア市場のようなリハーサルばかり聴いてきた僕は、いつもこの日本人の礼儀正しさに驚かされるが、今回もそれは同じで、まるで何事もなかったかのように、日本の他の地方の、普通の学校の様子を見ているのと変わりない。東京からプロの演奏者が学校に来ることに皆ワクワクして、楽器をピカピカに磨いて学校へ持って行き、その日が終わって家に帰れば、大喜びで撮った写真をブログにアップしたり、家族や友達に見せたりし、そして、もしかしたら中には音楽の勉強を続けてプロの演奏者を目指そうと思う子供もいるかもしれない。コンクールの課題曲をもっと上手に演奏するにはどうしたら良いかという質問を受けた。もちろん、うまく演奏することは大切で、その気持ちはよくわかる。皆が一生懸命で、指揮者が棒を持ち上げたら、誇り高く楽器を持ち上げる。


僕らの演奏中には、生徒たちの熱い視線を感じた。演奏者も観客も、部屋にいるのは皆同じ人間だ。とりわけ、生徒たちとの合同演奏では、部屋にいる全員が音楽に集中していた。音楽とは何と素晴らしいものなのだろう。人間の創造物で最も神に近い存在。音楽の前では皆が同等で、誰もが音楽を理解することができ、誰もが音楽から喜びを見出すことができる。



この日、この学校で、僕たちはこの国の希望の象徴を見た。未来がちゃんとそこにあること、そしてこれまで何度も蘇ってきたのと同様に、日本はこの困難から、必ず立ち上がるのだという保証を。





その朝、学校の様子は全てが普通だった。太陽は照り、海からは気持ちの良い風が吹いていた。昼には、美味しい弁当を食べていると、子供たちが大きな声で話したり、楽しそうに笑ったり、フォルテッシモで音を出して楽器のウォーミングアップをしたりしている。僕が、『トトロ』の曲をその日演奏するために、何度も何度もビデオを見たけれど、ストーリーはほとんどわからなかったと話すと、聞いていたおばあさんたちは朗らかに笑っていた!


皆で写真をたくさん撮って、サインをたくさんして、その日は終わった。人々は何度も何度もお礼を言ってくれて、頭を下げ、握手をし、最後に車が出るときには、手を振りながら「ありがとう」、そして僕に向かって「l love you!」と叫ぶ人までいた!

車が50mほど丘を下りると、朝のコンサートの喜びは終わりを告げて、もう現実に引き戻される。
多くの生徒たちにとって、この日の写真を見せる家族はいなく、ブログを読んでくれる友達はいなく、もらったサインを掛けておく自室の壁は存在しない…。 

あるのは希望。
彼らこそがみんなの希望なのだ。

がんばって!