プロコフィエフの《ロミオとジュリエット》 (Tamako)

先週は、久しぶりにバレエ公演を見ました。東京文化会館にて、デンマーク・ロイヤル・バレエの《ロミオとジュリエット》、音楽はプロコフィエフの作曲です。日本フィル事務局の女性と一緒に行きました[:星:]

 プロコフィエフは、今、日本フィルが、首席指揮者ラザレフ氏とともにその交響曲全曲プロジェクトに取り組んでいる作曲家ですが、少し難しい印象があるかもしれません。正直に言うと、私にとってはそうでした。でも、そんな私にも、以前から何度も聴き、魅せられてきたプロコフィエフ作品があることに気づきました。 そう、まさしくこのバレエ音楽ロミオとジュリエット》です。

 《ロミオとジュリエット》というタイトルでは、チャイコフスキーベルリオーズ管弦楽作品を書いていますし、グノーはオペラを書いています。でも、バレエの《ロミジュリ》といえば音楽は何といってもプロコフィエフ。二つの家の確執、その間に挟まれながら、若く疾走する恋の激情を、これほどまでに生々しく描き出している音楽は他にないと思います。そこには、バレエのために書かれたという事実が強くあるのかもしれません。つまり、そうした感情に支配された人間の肉体(=ダンスする身体)がすでに音楽の中に存在しているような感じ・・・でしょうか? それが時として強すぎて、争いのシーンなどでは、神経に障るような危険な匂いさえ、ぷんぷんしています。

 そんなプロコフィエフバレエ音楽ロミオとジュリエット》には、何人もの振付家が作品を作っています。この日見たのは、ハンブルクバレエの芸術監督であるジョン・ノイマイヤーの振付。全幕で見るのは初めてです。

 《ロミオとジュリエット》というと、最近NHKで放送された《マノン》を振付けたイギリスのケネス・マクミランのバージョンが名高いですよね。私もマクミラン版こそが決定版、と思うくらい信奉しています。でも、今回初めて全幕を見て、このノイマイヤー版も、全く違った素晴らしい作品だと感じました。

一言で言うと、バレエという「動く」舞台芸術なのに、「静」の表現も巧みだということでしょうか。ダンスがプロコフィエフの音楽にぴったりと寄り添いつつ、物語を雄弁に語っています。それでいて、ダンスが過剰にならずに、動と静の両方が表現の中で交差するのです。場のはじめでコール・ド・バレエが影絵のように現れたり、ジュリエットが悲しみとやるせなさで激しく踊る横で、両親がまるでルネサンス絵画の一枚のように静止したりする様は、とても印象的でした。

 また、「劇中劇」の要素も興味深いものでした。特に後半、ジュリエットが仮死状態になる薬をローレンス神父にもらうシーン。その薬を飲み、死んだ状態になることで、両親から強制された結婚を回避し、のちに目覚めてロミオと再会する・・・という計画を、同じ舞台の上で、旅芸人の一座がまさに踊って説明するのです。つまり、実際には実現することのない、ロミオとジュリエットが生きて再会し喜び合う姿が、舞台を見る私たちの目前に、目に見える形で現されるのです。当然、結末はそのように行かず、二人は再会せずに死ぬことになるわけですから、この「架空」の幸せを見せられることで、実際に起こる結末の悲しみが倍増されます。一つの舞台の上で、現実と仮想現実が交差する。実に巧みです。

・・・と、書き連ねるといくらでも書けてしまいそうなのですが、舞台美術や衣装の色使いもすばらしく、これまで親しんできたものとは別の、ロミオとジュリエットの世界を堪能した一夜でした。プロコフィエフの《ロミオとジュリエット》が何人もの優れた振付家を鼓舞して、素晴らしいバレエ作品が生み出されている。さまざまな振付、さまざまなダンサーで踊られていく《ロミオとジュリエット》を、これからも、何度も、見ていきたいです♪