【11月東京定期】高関健マエストロへのインタビュー&動画

11月東京定期に登場する高関健マエストロに、今回の演奏曲目であるブルックナー交響曲第8番への熱い想いを語って頂きました。またYoutubeでも高関氏が「ブル8」についてお話しています。


>指揮者高関健ブルックナー交響曲第8番について語る
(Youtube、クラシック・ニュース
http://classicnews.jp)


エストロ・高関健氏への一問一答
(聞き手:広瀬大介氏<音楽学・音楽評論家>)

1) ブルックナー交響曲、とりわけ今回演奏される《第8番》では、いわゆる「稿」と「版」の問題を避けて通ることができません。《第8番》においては、ブルックナーが最初に完成させた「1887年稿」と、後に改訂を施した「1890年稿」が存在し、現在ではほとんど後者ばかりが演奏されています。この二つの「稿」において、マエストロがもっとも重要と考える音楽上の違いを教えて下さい。

ブルックナーは作品を一度完成したのち、しばらく時間を置いてから自己批判により改訂の手を入れることが多く、結果的に複数の状態(稿)を残すことがありました。第8交響曲も1887年に一度完成しますが、その後改訂され、「1890年稿」が出来上がります。
改訂の目的は、作品の純度を高めることにあります。演奏された場合のバランスや効果などに現実的でない部分がある、という指摘もありますが、完成当初の1887年稿に比べ、音の選択を含む必然性と綿密な構成を獲得しています。1890年稿への改訂により構成のみならず、音楽的なインスピレーションも、数段優れた作品に仕上がったと私も考えます。

2) 改訂された1890年稿を基に、1892年の初演時に出版された「改竄版」(カール・ハスリンガー社版)、ロベルト・ハースが校訂した旧全集版(=ハース版、1939年)、戦後レオポルト・ノヴァークが校訂した新全集版(=ノヴァーク版、1955年)の3種類、そしてノヴァーク校訂の1887年稿(1972)、以上4種類の版を現在手にすることができます。今回の演奏会では、ハース版が用いられますが、マエストロはなぜハース版を選ばれたのか、その理由をおきかせ下さい。

ハンス・リヒター指揮ヴィーン・フィルによる初演で使われた楽譜は1890年稿ではありません。代わりにヨーゼフ・シャルクやオーバーライトナーが、ブルックナーの了承も得ないまま、当時の聴衆に耳触りが良いようにオーケストレーションを改変、揺れ動くテンポの変化、第4楽章での大幅なカットの提案など、原形を全くとどめないまでに変更されたものでした。これが「改竄版」(カール・ハスリンガー社版)です。ブルックナーのほとんどの交響曲は、最初「改竄」された形で出版され、1930年代に入りハースが第1次(旧)全集版を発表するまで、そのまま使われ続けました。原作の素晴らしさを良く知る現在の私たちにとって、とても考えられないことです。
1884年12月、第7交響曲が初演され、初めての大成功を収めます。この時ブルックナーは指揮者ニキシュと綿密にスコアを検討、演奏効果と音響のバランスを考慮した細かな改訂が行われました。この経験を通して作曲家が、今までとは違う改訂の目的を認識したと言えます。これをきっかけに、ブルックナーを擁護する指揮者たちが、同様の助言や提案を頻繁に行うようになります。第8交響曲の改訂と同じ時期に、第3交響曲の2回目の改訂が行われましたが、シャルク兄弟など、弟子たちの助言をかなり取り入れたものと言われ、第4楽章でやはり大幅なカットが行われています。
第8交響曲では楽章によって改訂の状態が異なります。第3楽章までの改訂は作品の完成度を高める目的に限られます。ブルックナーは、改訂により新しいフレーズを挿し込むあるいは以前のものと交換する際には、接続部分が目立たないよう前後の関係に特別な注意を払います。改訂の事実を知らないかぎり、私たちはこのような接続部分に気が付くことはありません。ところが第4楽章では、ブルックナーは1887年の自筆原稿に直接改訂を書き込んでいるのですが、状況が一変します。大きな改訂部分は10か所と思われますが、そのうちの5か所までは第3楽章までと同じ目的の改訂であり、これにより主題間の連携も密接になりました。しかし、残りの5か所については、進行を途中で切断して先のフレーズへつなぎ合わせるカットで、この場所がすべて「改竄版」と一致します。改訂とカットが混在するこのような状態は、他の作品では一切見られないことで、非常に特徴的です。
ハースは全集版の校訂を進めるにあたって、第4楽章での原稿の状態に着目しました。旧全集版はすでに絶版で校訂報告を読むことができませんが、スコアの序文では「他者からの圧力による改訂について、集められた多くの資料を検討した結果、他との分離に成功した」と記されています。ハースは作曲者の自筆であっても、第3楽章の1か所も含む6か所のカットをはじめ、「改竄版」と一致する変更部分を、シャルクたちが強く勧めた結果ブルックナーがしぶしぶ受け入れたものと断定して取り除き、カットを開いて1887年稿に戻した形で出版しました。これが「ハース版」です。しかし、これは作曲家が書いた通りを出版する、という原典版の趣旨からは外れているとも言えます。これに対し、ノヴァークは取捨選択をせず、1890年稿そのままの出版を行いました。これがいわゆる「ノヴァーク版」です。
原典を尊重する観点からは「ノヴァーク版」の方が作曲者の意図に沿うことになります。しかし、僭越かもしれませんが、1890年稿の第4楽章における改訂は、めずらしく不徹底なまま終わっている、と私も考えます。カットの多用が原因となって寸断されたような印象を何度も経験することになり、第3楽章までの改訂とは水準が大きく異なります。これにハースが違和感を覚え、改訂前の1887年稿を評価したことはむしろ良く理解できます。ハースによってカットを開かれたことにより、作品が本来持っている継続性と構成のバランスが確保されると判断できるので、第8交響曲で私はこれまでも「ハース版」により演奏してきました。もう一つの理由として、1977年に出会って以来、尊敬し続けてきた巨匠カラヤン氏のブルックナー演奏から大きな影響を受けていることも、率直にお伝えしたいと思います。


3)今回演奏される《第8番》のみならず、ブルックナーが遺した9曲の交響曲はいずれ劣らぬ名作です。バッハやベートーヴェン、そしてワーグナーに影響を受けた作風を花開かせ、19世紀末のウィーンで同時代のブラームスと「交響曲作家」の名声を分け合ったブルックナー。そしてひと世代後のマーラーに大きな影響を与えた、という音楽史の流れにブルックナーを位置づけたとき、彼の作品群(特に《第8番》を含む後期作品)は、どのような意義を持っているとお考えでしょうか。

ブルックナー交響曲の特長は何と言ってもスケールの壮大さです。ベートーヴェンが完成させた交響曲のスタイルをそのまま継承し発展させました。ソナタ楽章では主要主題を3つに増やして、展開部を充実させています。また第5交響曲の第4楽章で、「英雄」や「第九」に倣って展開部にフーガを取り入れたり、第8交響曲第1楽章の第1主題のリズムが「第九」のそれと同じであることなど、常にベートーヴェンに限りなく近づこうとする姿勢を見ることができます。主題展開以外の要素を使うことなく交響曲という形式を限界まで拡大したことで、ブルックナーベートーヴェンの最大の後継者と言えると思います。


4)ブルックナーの作品を指揮する際、他の作曲家とは異なるブルックナー特有の難しさ、そして魅力をお感じになることはございますか?あるとすれば、それはどのような点でしょうか。

ブルックナーは作曲にあたり、先に曲の構成を決め、和声進行もほぼ決定、フレーズの長さを表す小節数まで書き込んだのちに五線紙に音符を書き始めました。私は作曲家のアイディアに従い、基本的な構成をできる限り把握して、主題ごとにテンポが異なるときはそれぞれの関係を良く考え、バランスを欠くことがないように演奏を組み立てます。
実際の演奏は本当に難しいのですが、管楽器を中心とするコラールの表現を徹底、セクション内での響きのバランス、デュナーミクコントラスト、アーティキュレイションなどに注意を払います。また第5交響曲におけるフーガや、第8交響曲で多用されるカノンでは、各パートが明瞭に聴き分けられるよう統一感のある演奏を目指します。「上手くできた。」と感じたことはこれまで一度もありませんが、常に演奏者に希望と難題を与えてくれる、という意味で非常に魅力を感じます。第8交響曲のスコアで、最後の2ページにすべての楽章の主題がポリフォニックに関連付けられる瞬間は、指揮台の上でいつも感極まって聴いているのが実情です。

5)マエストロは、日本フィルというオーケストラの魅力はどこにあるとお感じでしょうか。今回の日本フィルとの共演では、どのような「ブルックナーサウンド」を奏でたいとお考えですか?

日本フィルは私にとって「命の恩人」です。渡邉暁雄先生のご推薦で、留学後日本で初めて演奏する機会を戴いたのが日本フィルの定期演奏会でした。極度の緊張の中で「春の祭典」を演奏したことは、今では良い思い出ですが、初日の練習で楽員の皆さんが、新米の私に対し好意的にやさしく接してくださったことを今でも心から感謝しています。私は日本フィルは特定のスタイルに拘泥することがなく、インターナショナルなサウンドを獲得していると思います。今回ブルックナーの演奏に当たり、私も不要な伝統に囚われることを避けるつもりです。日本フィルとの共演により、純度の高い、作品の本質に少しでも迫るような演奏を目指したいと考えています。